| ---ベスビアスの火山泥に埋め込まれて隔絶されたボ
ンベ イ人の白骨死体が発見された。一つは女性のもの
で、もう 一つは犬のものであった。女性の骨は部屋中に
散らばり、後まで生き残った犬にかじられた跡が残ってい
た---「イヌ」TJ・C・マクローリン (沢崎担訳)
1
ライトが<N大橋>と書かれた看板をとらえた。その橋
を渡るため、左にハンドルを切ったとき、インバネの時計
が男の視界に侵入した。十二時だった。
<明日になった>
男の経営する会社が振り出した幾通かの支払手形の
期日が到来した。今日、取り引き先に決済銀行から連
絡が入るだろう。半導体メーカー、チューブ管メーカー、
木工所……。そして、融通手形が二千万円二通。去年
の夏、例年になく雨が多く、アーケードショップは行きど
ころのない少年たちのおかげで活況を催していた。経理
担当郡長の制止をよそに、ゲーム機の増産にとどまらず、
男の一存で店舗展開にも踏みきった。一年持ち応え、そ
して、それが限界だった。ここ数か月、在車の処分と資金
繰りだけが男の仕事になっ た。
N大橋のせりだした頂点部分に達し、そして、緩やか
な橋梁の中央を越えると、車体が軽くなった。男は習慣
から、ブレーキを踏もうとして、気が変わった。何もかもが
終わったのだ、ただ逃げていくことだけを考えればいいの
だ、と男は自らに言いきかせた。
対岸にそのもの自身の発する光でマンションが二
棟、フロントガラスに立ち現われた。
助手席には女が坐っていた。女は高揚していた。今
朝、男に指示されて、女の実家に「遊びにいく」 と電
話した。母は自分の体調の悪さを訴えながらも、珍し
く喜んでくれた。
そんな母にどう説明したらいいのか、実家に着いたと
きの弁明のしようを繰り返し暗唱していた。あいかわら
ず母は男のことを嫌っていた。<離婚歴がある>、
<山気が多い>と信頼を置いていなかった。事態をあり
のままに説明すれば、<親の言うことを聞かないから、
バチがあたったのだ>と非難するに決まっている。<少
しの間だけだから>、<彼の友人の事業が軌道に乗れば、
彼の力を借りたいと約束しているから>と、筋立てを
考えてみても、口調と顔色からそれが、あてどのない
話であることを、きっと母は見抜くことだろう。
N大橋を渡り終えた車は、右手に向かう主線には入ら
ず、N川の堤に沿った細い砂利道に左折した。しばらく
砂利道を走った後で、ネットフェンスで囲まれた資材置
場の前に停車した。長辺十メートルは超えるコンテナ
が整然と並べられていた。門扉には××倉庫KK管理
土地とある看板がかかっていた。
男は煙草に火をいれると、振り返って、後部シート
をのぞいた。子供が寝ていた。一年生の誕生日会のため
にあつらえた、エビ茶のスーツを看ていた。片手には
スナック菓子の空き箱をはなさないまま、寝息をたてて
いた。男は外に出て、後ろのドアをあけると、子供の
手から空き箱を取り上げて、それから、刺繍のエンブレ
ムのついた上着を脱がせ、子供の胸に懸けた。
「新しい学校の制服を買わないといけない」と男は女に
小声で言った。
<甥の下がりがもらえるといいのだけれど>と女は思っ
たが、そのとおり返事をしなかった。口にだせば、男は
反駁するに違いない。ささいなことでいさかいを起こし
たくない。
雑草の中の虫が鳴き出した。男は子供の寝息を確か
めて、静かにドアを閉ざした。そして、車の後ろを回っ
て、左後郡のドアをあけ、車内に上半身を押し入れた。
子供の隣に、体長で八十センチはある犬が横たわって
いた。男は左手をその首輪に懸け、右手で胴をかかえ、
犬を引き上げようとした。犬は寝入っていたところを
起こされたために、体をくねらせて抗った。しかし、そ
れが主人の仕業であることを認めると、おとなしく身
をまかせた。
男は犬を砂利道に放した。
車に戻ろうとする犬に男は「マテ」と号令した。
犬は号令に答えその場で後駆を地面に下ろした。
男は後手でドアを閉めた。
犬が静止しているのを確認すると、男は車の後ろに
回り、トランクをあけた.中にはゴルフバックのかわ
りに、必要最小限の家財が入っていた。それでも、ぎっ
しりと隙間なく詰め込まれていた。
男にはひとつ悔やまれることがあった。出立の朝、
持ち出せる家財を女とともに整理した。しかし、いくら
探しても、この犬の血統書が見つからなかった。父・菊
丸、母・豊玉姫の問に生まれた玄丸はその血統書によ
って、父方、母方とも四代前までファミリーを遡ること
ができた。父の両親と母の両親とで四頭、そのそれぞれ
の父と母とで八頭、その一代前が十六頭、そして玄丸を
含め都合三十一頭の名称と、作出者・登録者の人間の
氏名が墨字で刻まれていた。鋭利な書き文字をありあ
りと思い浮かべることができた。血統書があれば処分
して、当座の足しになる。たとえ換価できなくても、
引き取り手を探すあてがあった。しかし、肝心の血統書
を探す時間がなくなってしまった。
いつでも取り出せるようにと、トランクの端に押し込
んでおいたドツグフードの袋を両手で引き抜くと、男は
封をあけ、一食分に相当する分量を犬の前に広げた。
「ヨシ」と声をかけると、その合図を待っていたように、
犬は茶色の果粒をむさぼりだした。黒く長い唇から、
干肉のかけらが溢れ落ちた。薄明りを集めるように犬歯
が光った。
男は立ち上がると、ぐるりと見渡した。N大橋が橋
脚に据え付けられたサーチライトで、あたかも、空中
に浮かんでいるかのように映った。一台のトラックがN大
橋を渡り終え、主線の方に曲がると、テールランプの二
条の残光を男に投げかけていった。
男はドツグナードの袋をフェンスに立て掛けると、
再び犬の前に戻って、しやがみこみ、「クロ」と呼びか
けた。
犬は食べることを中断して、頭を上げた。男の目線
と犬の目線の高さがはば一致した。男は右手を犬の
眉間にもっていくと、人指し指だけを突き出して、その
指を額溝にあて、上から下に添わせた。まなじりの上が
った眼が男をとらえ、褐色の瞳孔が快感を示すよう
に収縮を始めた。
玄丸を買い求めて以来二年間、毎朝かかさず、出勤の
際に、男は額溝を三度、指先でなぞってやった。その仕
草をする人間が、主人であることを男は犬に覚えこませ
た。そして、それは男が犬から数時間離れてしまうサイ
ンでもあった。
「ヨシ」
男は立ち上がりながら、ふたたび食事の命令を下
した。空腹を満たすことに専念する犬の姿を見やりなが
ら、車の後部にまわり、トランクのキーをかけ、男は
運転席に戻り、ロックした。子供が息苦しさを訴えるよ
うに小さなうめき声を発した。後部シートのさっきま
で犬の占めていた場所に席を変えていた女が、手にして
いたスカーフで子供に風を送った。
車が発進した。犬が後に残った。
2
抑留犬の回収車がY保健所の駐車場を出発した。Tと
課長が犬舎を背にして、回収車を見送った。予定より二
十分は早く終わった。隣のN保健所の収容がなかったた
め、こちらに直行したと運転手が言っていた。Y保健所
からは、引取犬を二頭、捕獲一頭を送り出した。
犬舎には迷犬が一頭残された。先週、Tが捕えたも
のだが、捕えた翌日から一週間、保健所の玄関の掲示板
に、抑留犬の告示をして飼い主の名乗りを待たなければ
ならないため、残りのあと二日間は、Y保健所でめんど
うを見なければならなかった。Tにはその犬がポイン
ターが混じったものであることが解っていたが、片親が
純正のものかどうか解らなかった。捕獲した時も相当衰
弱していたが、これまで他の犬を全く無視したように、
ただ犬舎の隅で床に伏せていた。観念しているのか、あ
るいは、より長く生き延びようと無駄なエネルギーを消
耗しないように努めているのか、引き取り手のない野犬
化して相当経つ犬によく見られる態度だった。
犬がめずらしく起き上がった。腹が巻きあがって、
後肢が異様に長い。肋骨が浮き出て、右下腹の一部の皮
毛が剥がれ、大きな傷を顛わにした。
「自分のテリトリーができたと、安心しているんですよ」
とTは課長に話しかけた。
「冷えてきたね。なにか、あげておけよ」と、曇天を見
上げた課長がそっけないくちぶりでTに指示した。
Tは飲食許可店から徴発した(抜き取り)の食品が
残っていないものかと、冷蔵庫を見に行った。めぼしい
ものがなかった。マジックインクで採取済と書かれたパ
ック牛乳を取りだし、そして、冷蔵庫の隣に置かれた飼
料ケースからドツグフードをひとつかみ持ち出して、犬
舎に戻った。抑留犬の飼料のための予算はほんの形だ
けのもので、それも他の業務に流用されて、現実には
年間五〇キロ程度しか買えない。あとは衛生試験用の
検査品と職員の昼夜食の残飯でまかなわれていた。
ドツグフードと牛乳の入った容器を犬舎に差入れると、
犬は、Tが犬舎から立ち去るのをうながすように、体を
微動させて、<ウウ>と一鳴き威嚇した。
「かわいげのないやつだ」と課長がTの背に声をかけた。
Tも同じ感想を持ったが、返事の声にはならなかった。
Tは犬舎に鍵をかけた。
回収員が抑留犬と引き替えに残していった五本の首輪
をひろいあげ、Tは首輪に貼られた引取日を記入した
シールをはがして、犬舎のひさしに打ちつけてある釘に
かけた。
課長はゆったりとしたフォームでゴルフのスイング
をしたあと、両手を挙げ上体を反りかえし、いきおいを
つけて前屈した。せりだした腹がつかえて、手のひらが
地面にとどかなかった。
Tは体操中の課長を残して、部屋に戻り席についた。
そして、Y市の飲食店組合の総会に出席する所長の挨拶
文の作成にとりかかった。昨年度の書類綴りから同じ会
議での挨拶をコピーにかけて、読み終わったとき、Tの
前に置かれた電話が鳴った。
「犬の係ですか」若そうな女の声がした。「小犬がある
んです。取りに来てください」
Tはできるだけ丁重に返事しょうと思いながら、答
えた。
「もうしわけありませんが、保健所までお持ちになって
いただけませんか」
「どうして、持って行かなければならないんでしょうか」
「皆さん、持ってきていただいていますので」
「そんな」と、やや怒気の含んだ女の声が止まった。
Tはどうしたものかと思った。多忙を理由にしよう
か、それとも、そもそも不用犬を保健所に持って行くの
が飼い主の義務であることを理由にしようか、その説明
の仕方に迷って黙っていると、女の沈黙の方が長続きし
なかった。
「あんなもの、持てません」
「さきほど、小犬だと言われたでしょう。持てないよう
な小犬ですか、なにか箱にでも入れてくだされば」
「どうして箱に入れるんですか」
何か話がかみあわないとTは思った。Tは肩とあごで
受話器をはさみ、煙草に火をつけた。
「犬のことは保健所の仕事なんでしょ」
「ええ」
「だから、犬が死んでるんです。家の前で。気持ち悪い
から、なんとかしてください」
女のかん高い声に、Tは思わず受話器を耳から離した。
不快さを覚えるとともに、しかし一方でTは安堵した。
いつの間に戻っていたのか課長がこちらを見ているのが
わかった。聞こえよがしに、机の上で鉛筆を鳴らしてい
た。
女の執ような抗議はなかなか終わりそうになかった。
Tは煙草を灰皿に置いて、その言い分を切り出す頃合
をはかった。息が切れたのか、女の呼吸音だけになって、
Tは説明にかかった。
「死んだ犬は、ゴミといっしょなので、こちらの仕事で
はないんです。市役所の環境郡へ言ってもらえませんか。
道路でしたら、道路の管理者が始末しますから」
「犬はゴ、、、ではないでしょ」女の声は、先はどの興奮を
忘れさせるような冷静なものに変わっていた。
「しかし、死んでいるのですから、廃棄物と同じ扱いで
す」
「そんな、かわいそうだわ」
「いずれにしろ、保健所では扱うことになっていません
から」
Tは煙草を手にして、一服した。
「そう」とすげない声を残して、電話が切れた。Tは
苦情カードに女との一件を記入するために、そのカード
のはいったバインダーの背に指をかけた。しかし、名前
も住所も、何も書きとめることができないのに気付き、
バインダーを手のひらで押しかえした。
電話で中断された仕事にとりかかったが、コピーをな
がめると、そんな気持ちになれないのがわかった。
動物愛護センターの捕獲員のBがY保健所に到着した。
「Mさん、どうしたの」とTは、ひとりできたBに尋ね
た。MとBはペアで、週に一度、巡回していた。Bは
自分でいれたお茶をすすっていた。茶碗を応接の机に置
き、ソファーに腰を下ろし、頭をかいた。
「ノイローゼ」とそっ気のない答えが返ってきた。「先
月から、ちょくちょく休んでいたのだけれど、今週はも
う、週明けから三日続き休んで」
TにはMのノイローゼに思いあたるものがあったが、
Bのその話を続けたくない様子を察して、話題を変え
ようかと考えた。適当な話題を考えつかないでいると、
Bは席を立って、「行きましょう」とTを促した。Bは
課長に会釈した後、なじみの保健婦にウインクを送って、
駐車場に出た。Tはロッカーとロッカーのすき問に立
てかけていた針ガネでできた捕獲具を二個取り出し、B
の後を追った。
黄色い川と紫色の川が交わって、ひとつの黒い川にな
っていた。その川に架かるN大橋を二頭の犬が西に向か
っていた。東行きの車が向かってくるたびに、黒い犬が
立ち止まり、車が通り過ぎるたびに、前をいく薄茶の一
頭を追った。
TとBはN川沿いの県道を北に向かった。堤塘で枯
葦の野焼きの煙が東からの風に乗り、その煙の中にN大
橋が浮かんでいた。県道が左にカーブした。運転してい
るTの視界に対岸のN市の町並みが入った。Tは自分
の家族の話逝がつきたところで、ノイローゼだというM
のことをBに尋ねた。
「Mは、前にN保健所にいたね」
「ああ、Nでは、元気だったのに」とBは、N大橋を振
り返りながら言った。「保健所の方が、いろいろやれて
楽しいよ」
Tは今日の電話の一件を思い出したが、話したい気
持ちを思いとどめ、Bが話を次ぐのにまかせた。
「センターは、ワン公専門だから。Mも代ってきた当座
は、それなりにこなしていたのだけれども……」
堤塘の道をクラブ活動らしいジョギングする女子高生の
一団が向かってきた。二十人はどが二列縦隊を作っていた。
「人間を相手にしている方が気が粉れるよ、ほんと」B
が言った。助手席のBは、上体をねじらせて、擦れ違う
女子高生達を追った。<ほんと>という力のない声を最
後にふたりとも黙り込んだ。
やがて、目的の公園に着いた。昨日Tが「野犬がいる」
という住民の通報を受けた場所だった。
公園には、年老いた女とその孫らしい子供がいた。年
老いた女はベンチに腰かけて、子供がジャングルジムで
遊ぶのを眺めていた。TとBは、先客のじゃまにならな
いよう、ジャングルジムと反対側のベンチに腰を下ろした。
Tは、公園のぐるりを因むように植えられたシヤリンバ
イの垣に視線を一巡させた。
野犬を認知することができなかった。
公園の南に接する工場から、鋼材の擦過音と、それを
運搬する男達の声がした。太陽が雲に隠れ、空気が急激
に冷えていくのがわかった。Tはポケットから携帯カ
イロを取り出し、ひとつをBに渡した。
「こんなところに寝ぐらを構えるかな」とBが少し非難
の色の交じった口調でつぶやいた。「夜露を凌ぐ場所が
ない」
TはBの非難が、自分に向けられているのか通報
者にむけられたものか決めかねながら、あらためて、
公園の全体を眺め、そして、いくつかの地上にある設置
物をひとつひとつ点検した。滑り台。ブランコ。ペンキ
のはげたゴミ箱。いくつかのベンチ。鳩一羽さえいない。
はぼ三十メートル四方の空間に、野犬の住処らしきもの
が認められなかった。
Tは簡単に引き揚げるわけにもいかず、Bの好みそ
うな話題を捜した。思い出したのは、Bが去年、学会誌
に発表した犬の胎児の発達についての論文のことだった。
「あいかわらず、切開しているのか」
Bは捕獲具の締まり具合を確かめていた。
「なにか、やっていないとね」とBは針ガネの輪を縮め
てから、自嘲ぎみに答えた。
「今は、季節はずれだから、妊娠中のは、少ないだろう」
Tが確かめた。
「ああ。だから、データの整理をしている。前の論文は、
開業医から、いろいろとクレームがついてね」
「あんな奴ら、何も判っていないよ」
Bから返事がなかった。しかたなく、Tは大学の同
期生にあたる開業医の話をした。実習が全くの苦手で、
注射もろくにできなかったが、口がたつのがとりえの男
のことだった。Bも知っている人間かと思っていたが、
Bは一言もしゃべらなくなった。
開業医の羽振りのいいさまを話し出してまもなく、先
客のふたりが公園を去った。前を小走りに行く子供の影
の頭のところを年老いた女が背を屈めて歩いていた。
工場から出る雑音と車の音だけが公園を支配し、ふた
りの男は、ベンチでじっとしていた。
一時間が過ぎて、ふたりの男は、同時に緊張した。
犬の呼吸音が聞こえた。Tがまず、その音の方向に頭
を向けた。
コリーが飼い主を牽引して保健所の車の影から公園に
入ってきた。薄い陽射しの中でもそれがすばらしい毛色
とつやをしていることが分かった。
飼い主の男が首輪からロープを外すと、コリーは勢い
よく走り出し、公園の内周を旋回した。Tの前を通る
とき、Tはその首輪に鑑札があることを見て取った。
「メスかな」とBはTにささやいた。そして、大仰に左
手のかいなを返し、腕時計を見た。TにはBが引き揚
げを催促する意図でしているのが分かった。Tも時計を
見た。四時を回っていた。出直しかと思うと、力強いギ
ャロップを刻むコリーが、Tにはうとましかった。
N川べりの資材置き場の陰に二頭の犬が、折り重なる
ように眠りについていた。傍らには食い散らかされた
鳩の死骸があった。
日没とともに一頭が起き出し、もう一頭の腹を鼻で
つついた。
3
Uは同年の男の子の中ではKと仲がよかった。母親に
は<女の子らしく女の子と遊びなさい>と言われていた
が、もう一人の男の子を含め、幼稚園が終わった後、夕
食までの時間を一緒に遊んですごすのが楽しかった。
今日はもう一人の男の子が風邪のために欠席してい
た。先生からは<うつるといけないから>と、二人に対
し、遊びに連れ出さないよう忠告を受けていた。
Uの家まで帰ってくると、Uは、家の中で算数のゲ
ームをしよう、とKを家に誘った。
「Uちゃん、下の公園まで行こう」とKは、家の中に入
いろうとするUの腕を掴んで、Uを向き直らせた。
Kは昨日の日曜日に見付けた<宝物>を見せたくて、
Uを、その隠し場所に案内しようと考えた。
「いいもの、見付けたんだ。秘密の宝物。Uちゃんだけ
に見せて上げる」
Kはじの顔色を窺った。Uは興味がありそうだっ
た。KはUが了解したと考えて、捉えていたUの腕を引
くと、その公園をめざして歩き出した。Uの抵抗がな
くなると、足を次第に早めた。
二十分かかって、公園に辿り着いた。Uには初めて
の場所だった。ブランコも何もない広場だけの公園で、
期待はずれだった。
歩き疲れたUは公園の中に水道栓をみつけ、背のび
をして、蛇口を開き、両手で掬って水を飲んだ。Kも後
に続いた。
箱型の、その公園の一辺にシヤリンパイの垣がはられ
ていた。垣の切れ目に一台の冷蔵庫が捨てられていた。
Kは冷蔵庫に近づき、そのドアを開けた。中には、シ
ーザーとアルファベットで綴られたブランドネームのは
いった靴箱があった。Kは屈みこんで、少し蓋を動か
し、その隙間から中身を確かめると、ふたたび蓋を閉め
て、冷蔵庫から靴箱を取り出して、扉を閉めた。
「昨日、見付けたの」KはUに靴箱を見せながら、自
慢した。「上の公園だと見つかってしまうから、ここ
に隠しておいたの」
Uには、この公園と上の公園の位置がどのように違っ
ているのか、よくわからなかった。早くその中身を見て、
家に戻りたかった。
「見たい?」
Kの質問にUは即座にうなづいた。
しかし、Kはすぐには宝物を見せなかった。Uを
じらしたかった。Kはその靴箱を背中にまわすと、
「何が入っているか、あててみて」と、Uをためした。
Uは木のようなものでできた、固い靴を思い浮かべ
た。しかし、Kの笑顔をみていると、違うもののようだ
と分かった。それから、別のものを考えてみた。家にあ
るものを思いかえした。一つ思いつく物があった。
「かぼちゃの貯金箱」
Kは突拍子のない返事に吹き出した。しばらく、
笑い声が止まらなかった。
「見せて、見せて」とUは、反りかえって笑うKを催促
した。
Kは真顔に戻ると、「じやあ、見せて上げる。見せ
て上げるから、両手を出して」と言った。
UはKの命令にしたがい、両手を差し出した。
「目をつぶって」
Uは両手を下ろし、目を閉じた。
KはUをかわいいと思った。
KはUの腕を持ち上げて、「そのまま」と小声でつ
ぶやいた。両手を前に突き出したじの顛の前で右手をふ
つて、Uの両目が閉じていることを確認すると、その手
で左手に抱えている靴箱の蓋をあけ、蓋を箱の底に移
した。そして、中味を右手で掴みあげ、Uの両手に乗せた。
Uはその手に少しむずがゆい感触を得た。それは
なにかずっと以前に触ったことがある物のように思え、
記憶の中から探し出そうとした。探し出せないでいると、
「もういいよ」とKの合図がかかった。
Uは目を開いた。
息をのんだ。犬の死骸が、胸の前にあった。Uの体が
硬直した。それが何なのか認識できると、Uは目を閉じ、
そして、両手を振り上げた。
生まれたての犬の死骸が空中に放り出され、Uの背た
けに等しい高さを頂点にして、落下した。
犬の背筋は反り返り、白い目は空を見ていた。頭と胴
に数か所、皮毛が接着して、皮膚の地色が露出していた。
Uはからだの力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。
そして、顔をあげてKを見た。Uの目には、Kの姿が
大人のように大きく映った。
「イヤ、イヤ……」とUは、繰り返し首を振りながら、
大声で叫んだ。
Kは予想しなかったじの反応にたじろいだ。何をす
ればいいかわからなかった。
KはUを残し、家に向かって走り出した。
「Kちゃん、きらい。Kちゃん、きらい」とUは繰り返
し、叫んだ。
午後四時。<下の公園>は、女の子ひとりを身籠もっ
ていた。道路をこえて、圧延工場のプレッサーの鈍い音
がスラグの壁を伝って、公園に反響した。
Uは泣き疲れ、おとなしくなると、あたりを見まわ
した。何も覚えているものがなかった。帰り道の方角が
わからなかった。そのことに気がつくと、心細さから一
層大きな声で泣き出した。泣くこと以外なにもすること
ができなかった。
雲が静かに動いた。それは、プレッサーの音に運ばれ
るような緩やかな動きだった。かすかな甘い香りが公園
の空気に交じりこんでいるようだった。その香りの物質
が、徐々に密度を濃くしていく気配があった。
黒い犬がUに近付いてきた。Uには救いの手が現われ
たように思え、泣くのを止めた。
犬の視線がUを捕えた。首を上下に揺らし、巻尾を上
方に保持して、犬はゆっくりとじに近付いた。
Uはその犬が祖父に飼われているケンのように思
った。そして、そうでないようにも思った。Uは確かめ
ようと、犬に近付いた。
犬はじの動きを見て、立ち止まった。そして、耳を
立てた。
Uはその反応を見て、ケンと違う犬だとわかった。
<ケンはシッポを振って喜んでくれた>
バームクーヘンをもっていたことに気付き、Uは肩
にかけたポーチの蓋に手をかけた。あと数歩の距離に、
犬がいた。
犬がうなった。犬の目を見ると、充血しているのがわ
かった。
「きたない」
犬は、既に混乱していた。
そこにいるものが、排除すべき同類であるのか、畏怖
すべき存在であるのか、区別がつかなかった。きれぎれ
のうなり声をたてながら、犬はUとの距離をつめた。
Uはポーチに手をかけたまま、後ずさりした。右足
が何かを踏みつけた。子犬の死骸だった。Uは慌てて、
右足を上げたが、左足を運ぶのといっしょになって、バ
ランスを失い、仰向けに転倒した。
犬のうなり声が止まった。Uは失禁した。
犬の臭覚が破壊された。
仰向けのじの上に、狂犬が襲いかかり、Uの首を一撃
した。四本の足すべてがUの上体を踏みつけ、そして、
執ように首を噛んだ。
Uは両手と両足を動かして抗ったが、狂犬は敏捷
に反応して攻撃を止めなかった。ついには、モリのよう
な重い歯が、Uの頸動脈を直撃し、鮮血が吹き出した。
後肢でじの下腹を蹴たて、犬は身を引いた。
いつの間にか三頭の犬が、広場にたむろしていた。U
を襲った狂犬を群れに迎え入れた。
4
四十歳を越えた頃合の女が藤でできたバスケットを
携えて、公園に立っていた。公園は六日前にテレビニ
ュースに写し出されたとおりの場所だった。公園の片隅
に水道栓が設置されていた。水道栓もテレビ画面の背
景に映っていたはずだと女は思った。
その傍らに碑があった。既に枯れてしまったユリが三
本、そして、ツバキのような濃い緑色をした葉をつけた
切り枝が二本、それぞれが違う方向にあしらわれていた。
五本ともに曇天の弱い光を受けて、なにかもどかしそ
うな吐息をついているように女には見えた。
女はバスケットを胸に抱え、その碑の前でしゃがみ
こんだ。碑文には、<U、安らかに眠ってください>と
あった。
<かわいそう>と女は思った。そして、両手を合わせ、
黙祷した。工場の音が耳ざわりだった。
女は立ち上がり、公園を後にした。公園の出口で同
じマンションの住人に出会った。女は軽く会釈をした
が、相手は、気付かないふうで通り過ぎた。マンショソ
に向かっているようだった。女はその後ろ姿のむこう
に、マンションの四階と五階と屋上の貯水槽を認めた。
二か月前の自治会で女は弾劾された。
貯水槽の修繕計画が可決され、会議の議題は終了した。
たったそれだけのために集まってもらったのに、肝心の
議案があっけなくかたづいてしまったため、しかたなく
議長は参会者に向かって、何でもいいからと、意見を
募った。しばらく沈黙が続いたあと、女の二号隣に住む
S婦人が立ち上がって言った。
「犬を飼っている人がいるようです。規則ですから、守
ってください」
それだけを発言して、S婦人は席に着いた。その提
案に同調する何人かの顔が動き、女に非難の視線を向け
た。女は一人暮らしの寂しさをまぎらすために、ボク
サーの幼犬を飼っていた。女はいたたまれなかった。
会議の後、女ほ幾度となく、会議のことを思い出し
た。どうして、直接に言ってくれなかったのか、その理
由を考えた。答えは解らなかった。その答えのかわりに、
仮に、S婦人があの時に言わなかったとしても、いつか
は、他の誰かが同じ場で同じ指摘をしたに違いないとい
う別の答えが女の思考の領域を支配するようになった。
三十戸ほどの世帯の中で、確かに自分しか犬を飼ってい
ないようだった。しかし、その日までは、かわいい、と
褒める人がいた。名前を尋ねる人もいた。抱かせてあげ
ることもあった。
自治会のあった日を境に、誰も女と犬の話をしなくな
つた。それどころか、あからさまに女を無視するように
なった。子供達も同じだった。
女は一帯の民家の背景に見るマンションを眺めなが
ら、製氷器が立っていると感じた。捻じる力を加えると
立方体の結晶がポロポロと剥がれ落ちていく、その容器
と氷なのだと思った。
女はマンションに背を向けて、歩き出した。
前方で、ガサッという音がした。街路樹の葉音だった。
見上げると、スズメより一まわり大きな鳥が、女の進む
方向に、羽をたたんで、慣性で飛行していた。人の気配
を感知すると、より遠くへ逃げていく、そんな習性を身
に付けている鳥だった。
数歩して女は、鳥が後にした街路樹の深い影に入り、
幹を見ながら、しやがみこんだ。
<珊瑚樹>と書かれたプレートが取り付けられていた。
「悪いのは、あの人たちだから」と、バスケットに向か
って話しかけながら、珊瑚樹の、下草がなくなって土肌
が露出している地面にそれを置いた。赤黒い実がいくつ
か散在しているのが、女には気ざわりだった。
「きっと拾ってくれる人がいるから、それまで、おとな
しくして」
バスケットの中で、動く物の動く音がした。
女の後ろを車が通り過ぎた。女は樹の裏側の車道
から見えない位置にバスケットを置き変えた。そして、
バスケットを開け、しばらくして閉じた。
じっとりした空気の流れが起こり、珊瑚樹が傾いだ。
ゆったりと大きな動きとともに、その葉音がした。女に
は、それが祝福の拍手のように聞こえた。
女は、裾についた土を払いながら、立ち上がった。
女はスーパーマーケットに立ち寄り、日曜日にいつ
もするように、次の週のおおよその献立を考えて、ひと
とおりの食材やら必要な雑貨を買い込んだ。外食を二日、
有り余りの消化に一日分見込んだ。
レジを待つ行列の中で、質物の中にドツグフードの缶
詰めが紛れ込んでいるのに気が付いた。いつもの習慣の
なせることに恥ずかしさを覚え、元の場所に戻そうか、
思案したが、ふんぎりがつかないまま、自分の精算の番
になって、店員にも言えず、結局、渡されたビニールの
袋に納まった。
マンションに着くと、日はすっかり暮れていた。
女は階段を上がり、四階の廊下に出た。廊下には誰も
いないのに何かが違っていた。違いはすぐに判った。自
分の玄関ドアの前に捨ててきたはずのバスケットがある。
女は動転した。両目を閉じ、閉じているまぶたの内側
の暗がりをなぞるように眼球を上下させ、そして、両目
を開けた。バスケットがあった。幻覚ではなかった。
<誰かが返しにきた、誰かが>
女は、安堵感と恐怖心とが入り交じった、とらえどこ
ろのない感情を整理できないまま、小走りに近付き、そ
っとバスケットを取り、自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
買物のビニール袋とともに、バスケットをキッチンの
テーブルに置いた。
バスケットを開けると、幼犬は静かな寝息を立て、
じっと体を丸めていた。
バスケットと犬の背に挟まれるように、見覚えのない
チラシが四折りにされて、入っていた。女はそれを取
り上げた。庭付き分譲住宅のありふれた広告だった。
広げると、裏側のマジックインクがしみでて、反転した
文字らしいものが浮き出した。女はチラシを裏返した。
そこには、二行の短いメッセージがあった。
<犬を捨てるな。犬を飼うな>
女は息をつめた。両手で力を込めてチラシを丸め込
んだ。そして、大きく吐息をし、丸めたチラシを開き、
幾片にも破り裂き、キッチンの隅のゴミ箱に投げ入れ
た。振り下ろした手の中から、<緑とやすらぎの街>と
印刷された、紙片が床に落ちた。
バスケットの中から、犬が高音の鳴き声を発した。ま
るで、女の苛立ちに呼応するような神経質なものだった。
女には、その音がマンションの住人すべてに聞こえたよ
うに感じられ、急いで、バスケットの蓋を閉じた。
女は決心した。犬を処分しなければならない、この
部屋の中で。
女は食器棚からスチール製のブロセットを取り出し
た。それがバスケットの高さにほぼ等しい長さがある
ことを見取って、その先端をバスケットの藤の編み目に
垂直にあてがった。
下向する力を加えれば、この串が犬の体を貫通する。
犬は苦痛の叫びをあげる。この部屋だけでなく、マン
ション中にこだまする。何分も、何時問も。
あの人たちは耐えられないだろう。それぞれの部屋
から廊下に出てくるだろう。この部屋のドアホンを鳴ら
す人がいるだろう。
ドアは開けない。
犬が息絶えて鳴きやめば、あの人たちは引き揚げる、
何事もなかったような教をして。
女は妄想から抜けでると、<でもこれでは何にもなら
ない>と思った。同時に、チラシに書かれた文字が女の
頭に戻ってきた。
隣のドアが開く音が聞こえた。階段を昇る靴音がした。
一歩ごとに、反響音が大きくなってくる。赤子の泣き声
がした。水道のパイプの不規則な排水。天井が振動する。
子供が騒いでいる。電話のコール。
そして、それらの音がいっせいに止んだ。
女はブロセットを食器棚の引出しに戻した。
<もう一つの方法がある>
女はバスケットから犬を抱え出して、重いドアを開け
た。
<せる27号 1988.3.10発行> |